rekisitekishikouryoku’s blog

歴史的思考力を一過性でなく継続的に身につける方法

日本史歴史思考1近代日本史(1)廃藩置県(A)版籍奉還

日本史をはじめます

今回からは、日本史の要旨把握の方法と、歴史的思考力を育成する手法を解説します。
日本史は、世界史に比べると論理性に欠けるところがあり、また思考力を育成するカギになる言葉が非常に多いという特色があります。
日本史はまた多くの学習者が既にある程度知識を持っていることが多い、という特色もあります。
そのため、歴史的思考力(応用力)という点ではかなり踏み込んだ深い内容を探究することができます。

そこで日本史の解説は、基本学習と同時に歴史思考を深めるというやり方をとります。

 

今回の参考資料・引用元は

山川出版社発行の教科書『日本史探究 詳説日本史』2022年検定済23年発行

P236~P238(7行目)「廃藩置県

https://new-textbook.yamakawa.co.jp/j-history

この教科書を持っていない方にも、読んだだけで理解可能なように書いています。

 

時代の確定

世界史の教科書が論理的な文章であったため、冒頭文には時代を特定する内容がありました。
しかし日本史のこの教科書の冒頭文には、そのような論理的な意味はありません。

そこで教科書に出てくる年号を、手がかりにします。

1869(明治2)年 1871(明治4)年 1872(明治5)年        1873(明治6)年 1874(明治7)年

この単元は明治初期の政治的な変革についての内容ですが、1869~74年の足かけ6年間の時期となっています。

 

第一・第二・第三段落の要旨と歴史的思考

第一段落には年号がありますが、その後の2つの段落には年号がありません。
そこで、この3段落を1内容ととらえます。

繰り返し出てくる言葉をチェックします。

新政府 旧 府 県 諸藩 大名 統治 
政治的統一(木戸孝允)(大久保利通)(薩摩)(長州)(土佐)(肥前)4 藩主 版籍奉還 
年貢 家禄 知藩事 
軍事 
一揆

文ごとに並べました。作文すると

「新政府は初め旧幕府領に府県を置き統治したが、諸藩は諸大名に統治させていた。やがて政治的統一をめざし主要4藩主を皮切りに各大名に版籍奉還をさせ、各大名に年貢の10%を家禄として与え知藩事に任命した。ただ諸藩は、軍事を握っていた。政府が増税したので、各地で一揆が起こった」

明治維新1868年。
といきなり近代統一国家が成立したわけではなく、徐々に成立していったのです。

*「新」「旧」

新しいものが出てくると、従来のものは使わなくなり「旧」になります。
ここでは徳川幕府が倒されたので、幕府とそれに連なるものは「旧」の存在になりました。

幕府に連なるものとは?
幕府の役職、例えば大老・老中・若年寄や三奉行・各地の奉行は廃止され「旧」になります。
諸藩は?幕藩体制を作っていたから幕府に連なるといえますが、ここでは × です。
武士は?幕府は武士政権だったので武士全体が連なるといえますが、 × です。

ということで版籍奉還時点では、諸藩も武士も「旧」存在ではありません。
倒幕の原動力となったのは諸藩・武士だったので、すぐには廃止できなかったのです。

というか大名や武士はその後、華族・士族と名を変えて20世紀半ばまで存続します。
第二次世界大戦後にいたる歴代の内閣総理大臣のほとんどが華族・士族やその子孫ということから、鎌倉時代以降の武士主導の状態が最近まで依然として続いていたということになります。

これは日本史の特色の一つで、旧時代のものが根強く残り続けるのです。
竪穴住居といえば縄文文化の代表物ですが、実は奈良時代平安時代にも庶民の住居として普通に使われていました。

*「府」「県」

地方組織のうちの広域組織の代表例として、この2つが出てきます。
県が一般的なのに対し、府は当時は3つ、現在でも2つしかありません。

府というのは、政府の府のことです。
だから首都のある東京には、このとき府が置かれました。
京都は旧首都、大阪は日本第二の都市があるので首都に近い存在という意味でした。
しかし後者については、現在では人口的には意味が失われています。地勢的には、西日本の代表都市が存在するという意味は持っています。

東京を含む広域組織は、現在では「都」に改称しています。京都や大阪との違いを明確にしたといえます。

北海道は、当初県が置かれたのですが、開拓・開発の必要のため道という特別組織になりました。現在は、都府県と並ぶ広域自治体の一つです。

徳川将軍家の居城江戸城が、天皇の住居皇居に)

*「諸藩」「統一」

統一をめざすという文から、当時の明治初期は日本国は政治的に統一されていなかったことが分かります。

政治的統一というのは、具体的には財政が一元化されていること、軍事の指揮が一元化されていること、の2点です。
当時の一般民の税の納め先は、旧幕府領を引き継いだ新政府(府・県)と、諸藩でした。
明治初期の石高割合でいうと新政府400万石・諸藩2800万石だったので、新政府は全国の税の約13%しか取れない状態でした。

軍事指揮権も諸藩がそれぞれに握っていて、新政府独自の軍はありませんでした。
戊辰戦争時の新政府軍(いわゆる官軍)というのは、諸藩が出した兵の寄せ集めだったのです。戦争が終わると解散して、皆帰国してしまいました。

世界史に出てくる分裂していた国が統一される過程の多くは、有力な諸侯が軍を増強し他を圧倒してというパターンが多いのです。
明治新政府はそのような状況でなかったのに、よく統一ができたものだと驚きです。
当時の武士(特に下級武士出身の藩首脳部)たちの間に、「欧米列強からの外圧に対抗し中央集権政府を作る」というような一体感というか共通認識があったといわれています。

*「4」「藩(主)」

この4藩の出身者が、奇しくも明治・大正・昭和にいたる政界の重鎮たちになります。いわゆる藩閥政治家たちです。
これは幕末志士の活動が活発でそのまま新政府の首脳部になった薩摩・長州・土佐3藩の出身者たちと、明治初期に要職を務めた肥前佐賀藩出身の大隈重信の活躍に起因します。

西郷隆盛像)

この4藩以外の藩出身者たちは、この4藩出身者に頼ることにより自分の地位を高めるしかありませんでした。
この藩閥の政治独占に反発したのが、自由民権運動です。
この藩閥政治家たちは憲法や議会の導入を全く考えていなかったのですが、この自由民権運動の結果として日本は近代的な立憲国家に成長することができました。

さて、ここで少し難しい探究をします。
この自由民権運動の萌芽は、幕末の公議政体論にあります。
これが結実したのが、五か条の誓文です。
「万機公論に決すべし」(全ての事柄は話し合いで決めよう)

これはもともと、幕末大老井伊直弼の独裁的なやり方(安政の大獄)に対する反発から始まりました。
公武合体思想はここから生まれ、これに欧米の立憲思想を取り入れたのが公議政体論です。
しかし藩閥政治家たちは権力の独占を狙い、五か条の誓文を無視しました。
自由民権運動は、既にこのときからくすぶり始めていたのです。

*「版籍奉還

「版」は、版図つまり土地。「籍」は、戸籍つまり人民。
それを朝廷に「奉り還す」。
これだけ見ると、廃藩置県の前に廃藩置県と同じ内容のことをやっているではないかという印象があります。

しかし、これはもちろん形だけのことでした。
そして実は、このやり方は江戸時代の幕府と大名の封建的主従関係再確認のやり方にそっくりでした。
将軍が代替わりしたり、大名が領地替えをしたり、大名が相続されたりすると、大名が江戸城に出頭し「いったん領地を将軍に返し、改めて封ぜられる」という儀式をしていました。
諸大名は、おそらく「返しても、改めてもらえるのだ」と誤解したと思います。
天皇・朝廷が従来通り封建的主従関係に基づく新幕府を開いたか、薩摩藩の島津氏が新将軍となり新幕府を開いたと、解釈した可能性があります。

*「年貢」「家禄」「知藩事

さらっと書いてありますが、非常に重大な改革です。

年貢の10%を家禄として諸大名に「与え」知藩事に「任命」したわけですが、誰が与えて任命したのでしょうか?
新政府ですね。
その年貢というのは、諸藩の領地からの収入です。
与えるためには、所有している必要があります。他人が所有しているものを人に与えることはできません。
つまり、この改革により新政府は諸藩の年貢の10%を没収したのです。

没収し自分のものにしたうえで、諸大名に与え知藩事に任命しました。
この瞬間、諸大名の身柄は、新政府の官吏になりました。
これは、非常に重大なことです。
官吏ということは、新政府の考え一つで解雇可能ということです。
(当時は労働基準法などはありません。雇い主がクビと言ったら、クビなのです)
与えるときの形式が「家禄」というのは、なんとも詐欺的な臭いがします(笑)。

ただ日本史特有の旧時代を引きずる傾向が、ここでも出ます。
この後、新政府は全国の武士たちが藩から受け取っていた禄の支給を全て引き受けてしまい、その削減や廃止に苦労することになります。
けっきょく明治政府というのは江戸時代の武士たちが主要メンバーとなって作った政権だったので、こういう苦労も仕方のないことでした。
この禄問題が完全解決したのは、第二次世界大戦後というから驚きです。

*「軍事」

平和に慣れるとおろそかになりがちなのが、この軍事です。
指揮系統の整ったまともな軍が存在しない国は、侮られ、攻められやすくなります。
国が独立国家として国際的に通用するためには、ある程度(侵略を阻止可能な程度)の軍を持つ必要があります。

当時は欧米列強が東アジア一帯に軍事的に進出しつつある時期で、日本は独立を保つため早急な軍事制度の確立が必要でした。
廃藩置県の最大の動機は、これです。
版籍奉還は、「廃藩置県をやりたいな」という本音をオブラートで包んだものです。

とりあえず諸大名を藩から切り離しました。これは、藩内部の分断を図ったものです。

*「一揆

これへのアプローチと探究は、いろいろな面から可能です。

一揆をおこすためには農民側にそれが可能なほどの組織化が進むことが必要で、組織を作るには経済的な安定が欠かせません。
いわゆる上層農民や大地主農民が、組織の幹部となります。
この組織化や幹部農民の成長がもとになり、のちの自由民権運動につながります。

ただ日本史上の一揆の主な目的は、「増税反対」一点に絞られているという特色があります。政治は上のもの(当時は武士、そして新政府)にお任せというのが根底意識にあり、それが現代の政治的無関心につながっています。
自由民権運動藩閥による政権独占に反発した、非藩閥勢力の政権参加要求運動といえます。
これは自由民権運動の幹部が士族(元武士)であり、一揆の幹部が農民というその違いの現れです。

現代も税負担はかなり重く、一揆が起きてもおかしくない状況です。
それではなぜ、起きないのでしょうか?
明治以降の軍と警察による徹底した取り締まりのほか、議会制度の創設により国民が政治に参加できるようになったので、非合法な手段に訴えるメリットがなくなったからです。

なお一揆というと竹槍などの武器を想像しますが、日本史上のほとんどの一揆は武器を持たず集団で役所に押しかけ陳情するにとどまっています。
現代では、国民が政治家に陳情する権利(請願権)は憲法で認められています。

 

版籍奉還の話だけで、文字数をかなり費やしてしまいました。
身近な日本の歴史なので、歴史的思考も多量になります。

 

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