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歴史的思考力を一過性でなく継続的に身につける方法

日本史歴史思考7近代日本史(5)文明開化

今回の参考資料・引用元は

山川出版社発行の教科書『日本史探究 詳説日本史』2022年検定済23年発行

P242~P244(9行目)「文明開化」

https://new-textbook.yamakawa.co.jp/j-history

 

冒頭文

いつの時代かの特定は書いていませんが、

富国強兵を目指す政府は、

とあるので、前の単元「殖産興業」の冒頭文

政府は富国強兵を目指して

と被ります。
つまり、この単元は殖産興業と同じ時期だと分かります。

 

本文要旨の把握と歴史的思考

この単元には、10の段落があります。
その段落の内容を見ると、第1段落は概説、第2段落は思想、第3・4段落は教育、第5・6段落は宗教、第7段落はマスメディア、第8段落は暦、第9段落は東京の都市外観、第10段落は地方への影響となっています。

繰り返し出てくる言葉をチェックし、その語群で作文を作ると本文要旨になります。

 

第1段落(概説)

政府 西洋文明 近代化 産業 学問 思想 生活 国民(文明開化)新風潮 都 習慣

「政府は、西洋文明を導入し近代化を目指した。それは産業のほか学問・思想・生活にわたるもので、文明開化の新風潮となって都市民に広がりその習慣も影響を受けた」

*「西洋文明」

とくれば、東洋文明。

よく誤解するのですが「東洋文明=旧文明」「西洋文明=新文明」というとらえ方は、避ける必要があります。
ここではあくまで、当時の西洋文明が近代的な(新しい)産業と文化だったので導入したというだけです。
これ以前の日本史の東洋(主に中国の)文明導入も、その当時は「新しい」文明だったのです。

その時その時で日本の発展に都合がいいと考えて導入しているものであり、都合の悪いものは導入しません。
日本人のちゃっかりとした一面ですが、他の国々の人も同じような態度で外国文明に接しているのが通常です。
和魂洋才という当時の言葉が、それを物語っています。

*「近代化」

という言葉も、あまり大きな意味づけをしてはいけません。
現代に近いものを導入したことから現代にとっては重要な出来事かもしれませんが、歴史はこの先もどんどん続くのです。
このときに導入した事柄は絶対的ではなく、この先に歴史が進んでいけば単なる「20世紀以降文明の基礎条件となった」文明の導入に過ぎないことになります。

*「文明開化」

だから、開化という呼び方は良くありません。
これではまるで今までの江戸時代が、「閉じていた」「真っ暗闇だった」という印象になってしまいます。

この語は、当時の政府が推進した政策傾向を表す言葉です。
当時の政府は、欧米列強と早く肩を並べるような国になるために急速に欧米諸国のものを取り入れ(つまり真似)、従来の文化を捨てるという暴挙に出ていました。
なかには道での立小便の禁止や子供の喫煙の禁止という良い改革もあったのですが、伝統的な祭りを禁止するという良くないこともありました。

人は過去と向き合いながら成長していくというのに、過去を全否定するというのはあまりにもおかしなことでした。

*「都(会)」

ただ文明開化は、幸いなことに日本全国一斉にというものではありませんでした。
都市部、特に首都東京だけといっても過言ではなかったのです。
農村部では、江戸時代以来の伝統文化や生活習慣が残りました。

これは、文明開化の目的が「欧米列強と肩を並べる」ことにあったので、外国人が訪れた時に見映えの良いものにしようということの表れでした。

 

第2段落(思想)

古い 排する 自由主義福沢諭吉

「古い思想が排除され、代わって自由主義思想が登場した」

*「古い」

から間違っている、新しいから正しいという考え方は、偏っています。
しかし当時の政府はそういうふうに政策を進めたので、国民には急速に「古いものは悪だ」という考えが広まってしまいました。

この日本人の偏ってしまった思考は、その後も長く続き現代に至っています。
第二次世界大戦の敗戦後も、戦前のものを全否定する風潮が起こりました。
ただ偏ったと書きましたが、それも言い換えれば日本人の新しい国民性が誕生したというべきかもしれません。
多くの日本人にとって向き合う過去が10年前くらいにとどまるようになったのも、この頃からでしょう。

*「自由」

この思想は、実は革命(時の政府からの自由、自由を抑圧する政府を倒せ)思想です。
自由にできる、自由にしたいというこの言葉の使われ方からも、不自由な状態が通常にあるからそこからの自由という風なニュアンスを含んでいます。

この明治初期だと、江戸時代の武士による抑圧からの自由、儒教封建制度からの自由、欧米列強による外圧からの自由が、考えられます。
政治的には、藩閥による政治支配がやがて薩摩・長州の2藩出身者に独占されたことから、その2藩以外の他藩(土佐・肥前など)出身者が「薩長政治からの自由」という意味で使います。自由民権運動は、当初、この動機で始まりました。

*「主義」

という言葉は、特に意味が深いです。
自由思想と、自由主義思想とでは、その意味合いが違います。
自由思想というだけでも上記のように革命的な思想ですが、主義という言葉が加わるとさらに強力な社会的な運動(心の中の思想が外に表現された状態)になります。

のち社会主義共産主義という言葉が出てきますが、労働者によるデモ活動や、テロ、政治運動など人々の目にはっきりと映る形になって現れます。
また資本主義という言葉は、社会主義が新登場し大規模な運動となった時にそれに対抗して唱えられたものです。

 

第3・4段落(教育)

教育 学校制度 自身を立て智を開き 功利主義 女 専門 旧幕府 師範学校

「政府は、学校制度を作った。その方針は、自身を立て智を開く功利主義。また女子教育・専門教育・師範教育も始めた」

*「功利主義教育」

これは、教育学の専門用語を知らないと理解が不足するものです。こんな内容を高校日本史で教えていいものか、ちょっと意味が分かりません。
教科書の史料に「学制」施行時の太政官布告が掲載されていますが、この史料の要点は「自身を立て智を開き」ではなくて、後半にある「邑(ゆう=村のこと)に不学の戸無く、家に不学の人無からしめんことを期す」です。
この教科書の執筆者は、この史料の理解を取り違えていると思います。

いちおう教育学の専門用語を解説すると、学ぶ目的には、実質陶冶(とうや)と形式陶冶(とうや)の2つがあります。
実質陶冶は、将来役に立つから学べという意味です。
形式陶冶は、学ぶことそれ自体を修練とするものです。
後者の例として、校則を守ったり遅刻をしないようにと指導することにより、生徒に社会生活の常識と規律を学ばせ、生徒の未熟な精神を鍛錬し成熟に向かわせるというものがあります。

この太政官布告は、実質陶冶の立場に立っています。
実質陶冶を極端に進めると、実生活に役に立たないことは学んでも無駄という考えに陥ります。
現代の経済界がよく「実践的な教育を」と主張しますが、それは実質陶冶の立場です。
大人向けの教育ならそれでいいのですが、未成年者向けにはそれでは不足します。

*「女子教育」

女子教育が始まったとありますが、当時の政府は江戸時代以来の儒教的封建思想にどっぷりと浸かっていたのであまり乗り気ではありませんでした。
岩倉使節団随行し留学した意識の高い女性が、帰国後に女子教育を主張したのです。

*「専門教育」

の反対語は、一般教養教育です。
現代的にいうと、一般教養は、通常小中高という基礎段階で学びます。
専門教育は、その上の大学で学びます。
高校でも工業・商業・農業を学ぶところがありますが、一般教養科目と併存しています。

上記の通り、一般教養は形式陶冶に当たり、専門教育は実質陶冶に当たります。
私の個人的な感想ですが、大学にもなぜか一般教養科目が存在するところに疑問を感じます。
大卒時の公務員採用試験に一般教養科目が存在することに、引っ張られているのかもしれません。
(その採用試験の一般教養科目のレベルは高校卒業程度です。大学で一般教養科目を学ぶ意味はないと感じます)

 

第5・6段落(宗教)

神道 教化 神仏 キリスト教 禁じる(浦上)キリシタン

「政府は、当初、神道による国民教化をめざし、神仏分離キリスト教禁止を進めた」

*「神道

神道(しんとう)は、日本の民族宗教です。
一般的には、神社神道を指します。
神社に祭られている神は、八百万(やおよろず)と呼ばれる多種多様な神々です。

明治政府が国民教化に使おうとした神道は、この神社神道ではありません。
神話の中には、自然発生的なもののほかに、古代朝廷によって政治的な意図(自らの正統性の主張)で作られた神話があります。
その政治的な神話の主人公が、古代の天皇とその先祖です。
明治政府は、この政治神道国家神道)を使って「日本国には古来天皇が君臨していて、日本は神の国である。だから国民は天皇とその政府に従うべし」という教育をしようとしました。

文明開化や殖産興業のさなかに進めようとしたため、反発が起こり失敗しました。
のち東アジア大陸の支配を目指す国民意識が高まったときに、改めて導入されました。

*「神仏」

日本には古来、仏教が存在します。
江戸時代には戸籍制度に利用され、仏教が社会の基本になっていました。
その一方で、人々は神社神道も信仰していました。
神道も仏教も日本人の生活の中に溶け込み、両者は分離できない状態にありました。
(正月に初詣、人が亡くなったら仏式葬儀、天神さんに雨ごい、観音さんに安産祈願)

明治政府は、これを無理に引き離そうとしました。当然、失敗しました。

*「キリスト教禁止」

これは江戸時代以来の政策で、明治政府の首脳部は元武士だったので当然のように継続しました。

キリスト教は、日本だけでなく世界各国(古代ローマ帝国など)で禁止の対象になっていました。
キリスト教は、唯一神(神+キリスト+聖霊)信仰です。神以外には服従しません。
さらに、「神の前ではみな平等」信仰です。
そういう教義ゆえに、ローマ帝国では当初敵視されました。

日本の場合は、歴史的な特殊事情の理由が大きいです。
戦国時代以降、キリスト教はスペイン・ポルトガルの植民地支配(侵略)の意図に随伴する形で布教されました。
豊臣秀吉・徳川氏が禁教に踏み切ったのも、外国からの侵略を防ぐ目的でした。
幕末以降の武士たちの意識には、欧米列強の侵略を防ぐというのがありました。
キリスト教は欧米列強の魔の手に随伴しているのでは、と疑ったのです。

この流れで、明治政府はキリスト教以外の諸宗教も公式の場から排除する政策をとり続けます。
信仰は黙認したものの、私学に対してさえ表立った宗教教育を禁止しました。

第二次世界大戦後の世界でも類を見ない日本の徹底的な政教分離政策は、この流れの上にあります。
アメリカの大統領就任式で聖書に手を置いて宣誓というのを見ると日本人の多くが違和感を覚えるのは、日本の長年の宗教分離意識に由来するところが大きいでしょう。

浦上天主堂。明治初期この付近の隠れキリシタンが名乗り出たが、政府に弾圧された)

第7段落(メディア)8段落(暦)9段落(影響)

幕末 新聞 活版印刷 発達 雑誌 西洋 太陽暦 採用 天皇 祝日 洋服  (銀座)煉瓦造りの建物 ガス灯 鉄道馬車

活版印刷の発達により、幕末以降新聞や雑誌が発行された。太陽暦が採用され、天皇関連の祝日が定められた。特に首都の大通りには当時の西洋風景が造られた」

*「活版印刷

活字ともいいます。「活」は、字1つ1つを自由に運用できるという意味です。

印刷は、かつて手刷りでされていました。
その原版は、最初は板1枚の木版を彫っていたのが、字ごとの木版を彫るようになりました。その字ごとの版が、活字です。
版は、木製から金属製(手で彫るのではなく、型に金属を流し込む鋳造)に変わっていきます。

ただアルファベットの場合は26字、大文字小文字区別しても52字にとどまるのに対し、日本語や中国語の活字は字の数だけ必要で非常に膨大な量になります。
開発や製造には、非常な労力を必要としました。

現在はこの活字印刷はほとんど無く、個別にはパソコンソフトによるものが大半で、事務用にはかつては謄写ファックス式(ガリ版)、現在はデジタル孔版印刷があります。

*「新聞」「雑誌」

という言葉自体を追究しても、楽しいです。
新聞は、新しく耳にしたこと、つまりニュースです。
雑誌は、いろいろな内容を書いた本。ニュースのほか、趣味や生活情報などです。

*「太陽暦

の対照語は、太陰(たいいん)暦です。太陰とは、月のことです。陰暦ともいいます。

ただ純粋な太陰暦を日常生活に用いている国は、現在はありません。
イスラム教徒の暦がそうですが、宗教行事のみに使っています。

日本でかつて使われていた旧暦は、太陰暦太陽暦を組み合わせた太陰太陽暦です。
太陰暦のままだと季節がずれるので、閏(うるう)月を入れます。
史料で「閏3月」と記されることがあるのですが、それは3月の次にもう1回3月があるのです。
この旧暦は、現在も占い・祭りや漁業(潮の満ち引きの計算)に用いられます。

*「祝日」

これは、国家・政府が一方的に決めるのが普通です。
その多くは、政治的意図をもって定められます。

現在もある祝日のうち政治的な意図のあるものの例として、建国記念日天皇誕生日があります。
政府は、欧米列強に対抗する近代国家として国を一つにまとめるため(統合するため)、天皇を頂点に位置づけました。
祝日が定められたのは、古来京都に在住していた伝統最高権威であるミカドが、改めて近代明治国家の最高権力者になったことを国民に周知させる意図がありました。
一般国民を「臣民(天皇の家来)」と呼ぶようになったのも、そういう目的です。

*「煉瓦造りの建物」

明治時代の建物といえば、煉瓦造り。
最大の長所は、燃えにくいこと。
欧米では、今もなお現役の建物として利用されています。

しかし日本は、地震大国です。
煉瓦造りは接着はしていますが積んでいるだけなので、耐震性がほとんどありません。
この銀座煉瓦街も、関東大震災で全て壊れてしまいました。

(赤レンガ倉庫。全国各地にあるが、これは函館のもので明治末頃の建物)

*「ガス灯」

これも、明治時代の象徴ですね。
今も全国各地で、記念的なものとして残っています。

一般家庭で使われなくなった理由は、炎が出るため引火しやすいからです。
大正初期には、早くも電灯が一般化しました。
というか、一般家庭ではこの大正初期まで明かりはろうそくやランプでした。

*「鉄道馬車」

なんとも不思議な乗り物ですね。
道を走る馬車と、レールを走る列車のハイブリッドみたいな?

車両を馬に引かせるのです。だから正確には、馬車鉄道といいます。
もちろん蒸気機関や電力の便利さにはかないません。

 

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