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歴史的思考力を一過性でなく継続的に身につける方法

日本史要旨把握1近代日本史(1)廃藩置県(A)版籍奉還

日本史をはじめます

今回からは、日本史の要旨把握の方法と、歴史的思考力を育成する手法を解説します。
日本史は、世界史に比べると論理性に欠けるところがあり、また思考力を育成するカギになる言葉が非常に多いという特色があります。
日本史はまた多くの学習者が既にある程度知識を持っていることが多い、という特色もあります。
そのため、歴史的思考力(応用力)という点ではかなり踏み込んだ深い内容を探究することができます。

そこで日本史の解説は、基本学習と同時に歴史思考を深めるというやり方をとります。

 

今回の参考資料・引用元は

山川出版社発行の教科書『日本史探究 詳説日本史』2022年検定済23年発行

P236~P238(7行目)「廃藩置県

https://new-textbook.yamakawa.co.jp/j-history

この教科書を持っていない方にも、読んだだけで理解可能なように書いています。

 

時代の確定

世界史の教科書が論理的な文章であったため、冒頭文には時代を特定する内容がありました。
しかし日本史のこの教科書の冒頭文には、そのような論理的な意味はありません。

そこで教科書に出てくる年号を、手がかりにします。

1869(明治2)年 1871(明治4)年 1872(明治5)年      1873(明治6)年 1874(明治7)年

この単元は明治初期の政治的な変革についての内容ですが、1869~74年の足かけ6年間の時期となっています。

 

第一・第二・第三段落の要旨と歴史的思考

第一段落には年号がありますが、その後の2つの段落には年号がありません。
そこで、この3段落を1内容ととらえます。

繰り返し出てくる言葉をチェックします。

新政府 旧 府 県 諸藩 大名 統治 
政治的統一(木戸孝允)(大久保利通)(薩摩)(長州)(土佐)(肥前)4 藩主 版籍奉還 
年貢 家禄 知藩事 
軍事 
一揆

文ごとに並べました。作文すると

「新政府は初め旧幕府領に府県を置き統治したが、諸藩は諸大名に統治させていた。やがて政治的統一をめざし主要4藩主を皮切りに各大名に版籍奉還をさせ、各大名に年貢の10%を家禄として与え知藩事に任命した。ただ諸藩は、軍事を握っていた。政府が増税したので、各地で一揆が起こった」

明治維新1868年。
といきなり近代統一国家が成立したわけではなく、徐々に成立していったのです。

*「新」「旧」

新しいものが出てくると、従来のものは使わなくなり「旧」になります。
ここでは徳川幕府が倒されたので、幕府とそれに連なるものは「旧」の存在になりました。

幕府に連なるものとは?
幕府の役職、例えば大老・老中・若年寄や三奉行・各地の奉行は廃止され「旧」になります。
諸藩は?幕藩体制を作っていたから幕府に連なるといえますが、ここでは × です。
武士は?幕府は武士政権だったので武士全体が連なるといえますが、 × です。

ということで版籍奉還時点では、諸藩も武士も「旧」存在ではありません。
倒幕の原動力となったのは諸藩・武士だったので、すぐには廃止できなかったのです。

というか大名や武士はその後、華族・士族と名を変えて20世紀半ばまで存続します。
第二次世界大戦後にいたる歴代の内閣総理大臣のほとんどが華族・士族やその子孫ということから、鎌倉時代以降の武士主導の状態が最近まで依然として続いていたということになります。

これは日本史の特色の一つで、旧時代のものが根強く残り続けるのです。
竪穴住居といえば縄文文化の代表物ですが、実は奈良時代平安時代にも庶民の住居として普通に使われていました。

*「府」「県」

地方組織のうちの広域組織の代表例として、この2つが出てきます。
県が一般的なのに対し、府は当時は3つ、現在でも2つしかありません。

府というのは、政府の府のことです。
だから首都のある東京には、このとき府が置かれました。
京都は旧首都、大阪は日本第二の都市があるので首都に近い存在という意味でした。
しかし後者については、現在では人口的には意味が失われています。地勢的には、西日本の代表都市が存在するという意味は持っています。

東京を含む広域組織は、現在では「都」に改称しています。京都や大阪との違いを明確にしたといえます。

北海道は、当初県が置かれたのですが、開拓・開発の必要のため道という特別組織になりました。現在は、都府県と並ぶ広域自治体の一つです。

徳川将軍家の居城江戸城が、天皇の住居皇居に)

*「諸藩」「統一」

統一をめざすという文から、当時の明治初期は日本国は政治的に統一されていなかったことが分かります。

政治的統一というのは、具体的には財政が一元化されていること、軍事の指揮が一元化されていること、の2点です。
当時の一般民の税の納め先は、旧幕府領を引き継いだ新政府(府・県)と、諸藩でした。
明治初期の石高割合でいうと新政府400万石・諸藩2800万石だったので、新政府は全国の税の約13%しか取れない状態でした。

軍事指揮権も諸藩がそれぞれに握っていて、新政府独自の軍はありませんでした。
戊辰戦争時の新政府軍(いわゆる官軍)というのは、諸藩が出した兵の寄せ集めだったのです。戦争が終わると解散して、皆帰国してしまいました。

世界史に出てくる分裂していた国が統一される過程の多くは、有力な諸侯が軍を増強し他を圧倒してというパターンが多いのです。
明治新政府はそのような状況でなかったのに、よく統一ができたものだと驚きです。
当時の武士(特に下級武士出身の藩首脳部)たちの間に、「欧米列強からの外圧に対抗し中央集権政府を作る」というような一体感というか共通認識があったといわれています。

*「4」「藩(主)」

この4藩の出身者が、奇しくも明治・大正・昭和にいたる政界の重鎮たちになります。いわゆる藩閥政治家たちです。
これは幕末志士の活動が活発でそのまま新政府の首脳部になった薩摩・長州・土佐3藩の出身者たちと、明治初期に要職を務めた肥前佐賀藩出身の大隈重信の活躍に起因します。

西郷隆盛像)

この4藩以外の藩出身者たちは、この4藩出身者に頼ることにより自分の地位を高めるしかありませんでした。
この藩閥の政治独占に反発したのが、自由民権運動です。
この藩閥政治家たちは憲法や議会の導入を全く考えていなかったのですが、この自由民権運動の結果として日本は近代的な立憲国家に成長することができました。

さて、ここで少し難しい探究をします。
この自由民権運動の萌芽は、幕末の公議政体論にあります。
これが結実したのが、五か条の誓文です。
「万機公論に決すべし」(全ての事柄は話し合いで決めよう)

これはもともと、幕末大老井伊直弼の独裁的なやり方(安政の大獄)に対する反発から始まりました。
公武合体思想はここから生まれ、これに欧米の立憲思想を取り入れたのが公議政体論です。
しかし藩閥政治家たちは権力の独占を狙い、五か条の誓文を無視しました。
自由民権運動は、既にこのときからくすぶり始めていたのです。

*「版籍奉還

「版」は、版図つまり土地。「籍」は、戸籍つまり人民。
それを朝廷に「奉り還す」。
これだけ見ると、廃藩置県の前に廃藩置県と同じ内容のことをやっているではないかという印象があります。

しかし、これはもちろん形だけのことでした。
そして実は、このやり方は江戸時代の幕府と大名の封建的主従関係再確認のやり方にそっくりでした。
将軍が代替わりしたり、大名が領地替えをしたり、大名が相続されたりすると、大名が江戸城に出頭し「いったん領地を将軍に返し、改めて封ぜられる」という儀式をしていました。
諸大名は、おそらく「返しても、改めてもらえるのだ」と誤解したと思います。
天皇・朝廷が従来通り封建的主従関係に基づく新幕府を開いたか、薩摩藩の島津氏が新将軍となり新幕府を開いたと、解釈した可能性があります。

*「年貢」「家禄」「知藩事

さらっと書いてありますが、非常に重大な改革です。

年貢の10%を家禄として諸大名に「与え」知藩事に「任命」したわけですが、誰が与えて任命したのでしょうか?
新政府ですね。
その年貢というのは、諸藩の領地からの収入です。
与えるためには、所有している必要があります。他人が所有しているものを人に与えることはできません。
つまり、この改革により新政府は諸藩の年貢の10%を没収したのです。

没収し自分のものにしたうえで、諸大名に与え知藩事に任命しました。
この瞬間、諸大名の身柄は、新政府の官吏になりました。
これは、非常に重大なことです。
官吏ということは、新政府の考え一つで解雇可能ということです。
(当時は労働基準法などはありません。雇い主がクビと言ったら、クビなのです)
与えるときの形式が「家禄」というのは、なんとも詐欺的な臭いがします(笑)。

ただ日本史特有の旧時代を引きずる傾向が、ここでも出ます。
この後、新政府は全国の武士たちが藩から受け取っていた禄の支給を全て引き受けてしまい、その削減や廃止に苦労することになります。
けっきょく明治政府というのは江戸時代の武士たちが主要メンバーとなって作った政権だったので、こういう苦労も仕方のないことでした。
この禄問題が完全解決したのは、第二次世界大戦後というから驚きです。

*「軍事」

平和に慣れるとおろそかになりがちなのが、この軍事です。
指揮系統の整ったまともな軍が存在しない国は、侮られ、攻められやすくなります。
国が独立国家として国際的に通用するためには、ある程度(侵略を阻止可能な程度)の軍を持つ必要があります。

当時は欧米列強が東アジア一帯に軍事的に進出しつつある時期で、日本は独立を保つため早急な軍事制度の確立が必要でした。
廃藩置県の最大の動機は、これです。
版籍奉還は、「廃藩置県をやりたいな」という本音をオブラートで包んだものです。

とりあえず諸大名を藩から切り離しました。これは、藩内部の分断を図ったものです。

*「一揆

これへのアプローチと探究は、いろいろな面から可能です。

一揆をおこすためには農民側にそれが可能なほどの組織化が進むことが必要で、組織を作るには経済的な安定が欠かせません。
いわゆる上層農民や大地主農民が、組織の幹部となります。
この組織化や幹部農民の成長がもとになり、のちの自由民権運動につながります。

ただ日本史上の一揆の主な目的は、「増税反対」一点に絞られているという特色があります。政治は上のもの(当時は武士、そして新政府)にお任せというのが根底意識にあり、それが現代の政治的無関心につながっています。
自由民権運動藩閥による政権独占に反発した、非藩閥勢力の政権参加要求運動といえます。
これは自由民権運動の幹部が士族(元武士)であり、一揆の幹部が農民というその違いの現れです。

現代も税負担はかなり重く、一揆が起きてもおかしくない状況です。
それではなぜ、起きないのでしょうか?
明治以降の軍と警察による徹底した取り締まりのほか、議会制度の創設により国民が政治に参加できるようになったので、非合法な手段に訴えるメリットがなくなったからです。

なお一揆というと竹槍などの武器を想像しますが、日本史上のほとんどの一揆は武器を持たず集団で役所に押しかけ陳情するにとどまっています。
現代では、国民が政治家に陳情する権利(請願権)は憲法で認められています。

 

版籍奉還の話だけで、文字数をかなり費やしてしまいました。
身近な日本の歴史なので、歴史的思考も多量になります。

 

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世界史要旨把握9中世ヨーロッパ史(9)中世封建社会

中世前半のヨーロッパの話は、今回がラストとなります。
中世後半のヨーロッパの話(十字軍など)は、また機会がありましたら書きます。

今回から、写真も入れています。
引用元は、商用利用可能な著作権フリー素材サイト(写真AC)です。

 

今回の参考資料・引用元は

山川出版社発行の教科書『世界史探究 詳説世界史』2022年検定済23年発行

P100~P101「封建社会の成立」

https://new-textbook.yamakawa.co.jp/w-history

 

冒頭文を見よう

民族大移動後の

この後の内容は、この時代の特色の説明です。
だから、この部分がこの時代の前の時代になります。

ゲルマン人の大移動は、6世紀に一応の終わりとなります。
よってその後の7世紀が、中世の始まりです。
この7世紀は、イスラーム勢力が東や南からヨーロッパを脅かし、東からはスラヴ人マジャール人が攻めてきて、さらに北からはノルマン人が迫ってくるという時期です。

この大混乱の時期に生活防衛の対策として次第に始まり11世紀に定着したのが、封建的主従関係というものです。

 

繰り返し出てくる言葉をチェックし、本文の要旨を把握しよう

この単元は、世界史の分野と思えないほどカタカナ語が少なく、漢字で満ちあふれています。
そのため難しく感じ、ここの部分が苦手だという人も少なくありません。
しかし私が提案しているこの手法を使えば、逆にこういった漢字だらけの単元こそ要旨の把握が容易です。

第一段落

西(ヨーロッパ)都市 社会 農 外部勢力 侵入 守る 保護を求める 中世 世界 特有 仕組み 封建的主従関係 荘園 成り立つ 封建社会

ここは、最初にこの時代の特色を大まかに説明しているので、文章のほぼ全部が要旨となります。

 

第二段落

国王 諸侯 大 貴族 小 有力者たち 結びつき 主君 家臣 封 領地    忠誠を誓う 義務 契約 従 

日本の鎌倉時代や江戸時代の武士同士の封建関係と、言葉はよく似ていますが。

「国王や大貴族(諸侯)・小貴族(騎士)ら有力者たちは、結びつきを強めた。主君が家臣に封(領地)を与え、家臣が主君に忠誠を誓う。それは契約関係であり、双方に従う義務があった」

これを見ると、日本の武士同士の関係よりも、平安時代の貴族と地域有力者との関係(土地を寄進し、便宜を図ってもらう)のほうが似ています。
目的も、平安時代のそれ(治安が悪い、重税逃れ目的で強者の保護を求めた)と同様だからです。
最大の特色である対等関係も、武士同士の完全主従関係ではなく、平安時代の利害一致の持ちつ持たれつ関係に似ています。

(ドイツには領主が多数いました。数多くの城が現存しています)

第三段落

(恩貸地)制度 (従士)制 地域 支配

「この関係は、古代ローマ時代やゲルマン人の地域支配の仕組みである恩貸地制度と従士制が原型になっている」

地域、という気になる言葉が出てきましたね。歴史的思考がふつふつと湧いてきます。

 

第四段落

所有 農民 領主 直営地 保有地 牧草地 共同(農奴)自由 税 パン焼き  経済 入る

「封建関係を結んだ者は、土地を所有し農民を支配する領主である。土地は、領主直営地・農民保有地・共同牧草地などに区分された。農民は自由がない農奴で、パン焼きなど日常生活に対しても課税された。経済は農村限定。その領地には国王の役人さえも入れなかった」

説明がほとんど要らないくらい、まとまっています。

細かいところを言えば、農民の保有地は短冊状にされてあちらこちらに分散され、農民が力を持たないようにされています。
日常生活の規制ですが、パンを焼いたら課税の他、結婚したら課税、死亡したら課税、とめちゃくちゃです。領主からの理不尽なおぞましい要求もありました。
海賊から保護してやってるんだから言うことを聞けと、言わんばかりです。

(川の水流⇒水車⇒石うすで、収穫した麦を挽いて粉にします)

 

上記の言葉の中から歴史的思考可能な言葉を抜き出そう

西 都市 農 外部勢力 侵入 守る 保護を求める 中世 特有 主 従 国王 諸侯 大 貴族 小 結ぶ 主君 家臣 忠誠を誓う 義務 契約 従 制度 地域 農民 領主 直営地 保有地 牧草地 共同 奴 自由 入る

こちらは、非常に多いです。
こういう抽象的な漢字だらけの単元は、歴史的思考の宝庫になるのです。
この後、分量が非常に多くなります。興味のある言葉だけを読んでもいいです。

*「西」

中世の西ヨーロッパには封建社会が成立した、すると東ヨーロッパは?

しかしその前に。西ヨーロッパといっても全域が封建社会になったわけではありません。
北海やバルト海沿岸の地域や、地中海沿岸地域は、比較的農民が自由でした。
前者はノルマン人の原住地であること、後者は海賊の被害が比較的少なかったことが影響しています。
さらに考えられることは、これらの地域は海沿いです。
生活手段の中に海を利用するもの、つまり船で移動することが含まれます。
人が移動可能ということは、土地に縛り付けられない、比較的行動が自由ということです。
この人の移動の自由というのは、実は現在日本の憲法の中に条文が定められています。それが、基本的人権の一つであることがよく分かります。

*「都市」

都市が衰え、農村メインの時代に。

古代は都市メインの時代であり、近代そして現代も都市メインの時代です。
都市とは何かというと、商業(「市」)が盛んで人が集まる(「都」)ことを意味します。
商業は、人の移動を伴います。交易・貿易が盛んで、地域同士の国際交流が盛んです。
商業の便宜のため、貨幣が用いられます。
経済活動が活発なため、運不運に由来して貧富の差が生じます。

中世の農村社会は、この都市メイン社会の真逆なことが特色になります。
商業が衰退し、貨幣がなくなり物々交換になり、村で栽培した作物をそのまま村で消費し、人が集まらず各地方・各地域に分散します。
ただ、貧富の差が少なくなります。

*「農」

農業といえば、商業。
この2つは真逆の産業のように見えて、実はとても密接で互いになくてはならない関係にあります。
商業が発達すると、農業も発達します。
農業が衰退すると、商業も衰退します。

商業で売り買いされる商品の半分は、農業によって生産される物やその加工品だからです。
その代表例が、食品。
食品の原料は、穀類・豆類・野菜など田や畑で栽培されたものです。

農業は、牧畜業・林業水産業とともに第一次産業です。
第一次産業が発展していないと、第二次産業である工業は発展せず、結果として第三次産業の商業は発展しません。
第一次産業を軽視する国は、早晩、経済が衰退していきます。

中世西ヨーロッパの封建農村は、農牧業を主要産業としていながらそれらも沈滞した状態だったのです。

*「外部勢力」「侵入」

人というのは怠惰なもので、自発的に動こうとせず、外部から促されてようやく動き出すというところがあります。
古今東西の歴史上も、そういう事例が多数あります。
いわゆる外圧というものです。
現代の国際交流が盛んな時代では、外圧は普通の現象になっています。(あまり褒められたものではないのですが)

日本史上最も大きな外圧は江戸時代末のペリー来航・開国の圧力で、これがきっかけとなって江戸幕府は崩壊し明治維新が起こりました。
第二次世界大戦で敗れた日本は、占領したアメリカ軍からの圧力により明治憲法を廃止し、日本国憲法を制定しました。

国内からの突き上げや反乱が歴史を動かした例は、欧米ではよく見られます。
絶対的な支配をしていた国王・貴族を市民が打倒した市民革命が、その例です。
日本史ではゆるやかに進んだ国内突き上げ例として、平安貴族に対する、武士の台頭、武家政権の成立というものがあります。

*「侵入」「守る」「保護を求める」「結ぶ」「忠誠を誓う」「契約」「入る」

動詞言葉ですね。
動詞とくれば、誰と誰の関係なのかを確定する必要があります。

大半は、本文要旨の把握のところで書きました。

特色のあるものは、「結ぶ」「契約」です。
中世の西ヨーロッパの封建的主従関係はいちおう「従」となっていますが、それはあくまで契約上「誰々が、誰々に従う」という約束した内容であり、完全服従というものではありません。

それが「結ぶ」という対等の関係を表す言葉になって、表れています。
もちろん対等というのは建前で、実質的には領地の広狭や国王との親密度の大小に応じて事実上の完全服従的な主従関係があったわけです。

それは近現代の経済取引上の契約でも同じことで、法律上契約関係は対等となっていますが、実質的には例えば企業と消費者の契約関係だと前者が圧倒的に優位の状況になっています。
(近年はインターネットの普及により、消費者の発信がかなりの力を持ってきている)

 

「入る」という言葉は一見普通の言葉に見えますが、じつは人の平穏な日常生活を脅かす恐れのある言葉です。
住居侵入罪という犯罪が、現代日本にあります。
これは、住居の中で自立した生活を送ることが、人が安心して社会生活を送るうえで不可欠なことだということを示しています。
だから、他人が住居の中に入ってくることを許す場面は、住んでいる人によほどの犯罪的事情がある場合や、行政による強力な指導がある場合、そして住人が許した場合だけです。

その行政による強力な指導の代表例が、土地課税や都市開発です。
現代日本でも市町村の担当者が個人の住宅内に立ち入って測量し、それをもとに固定資産税を課税します。
開発の対象になると国や自治体の職員が住居内に立ち入り調査し、場合によっては強制的な立ち退き命令が下ります。住人の中には抵抗して座り込み、機動隊に排除されるという光景もあります。

領主が荘園への国王官吏の立ち入りを拒んだとありますが、もちろんその領主が国王に匹敵するか脅かすような実力を持つ場合だけでしょう。

*「中世」

といえば、古代と近代の間。
それがとてもあいまいな時代区分だということは、前に書きました。

なお、時代区分には古代・中世・近代のほかに、中世と近代の中間的な時代を近世と呼ぶというのがあります。
日本史でいうと信長秀吉時代以降、幕末まで。
世界史でいうと、ルネサンスの後から大航海時代を経て産業革命まで。
「歴史総合」も、近世から始めるか、近代から始めるかという教科書によって対応が違うというのがあります。

*「特有」

封建社会は、中世特有のものという表現です。
特有というのは、かなり大げさな書き方です。

同様の制度が、古代中国や、日本の鎌倉・室町・江戸時代にあったことを思えば、この言葉は誤っているといえます。

ただ主従が対等関係というなら、確かに西ヨーロッパ中世特有の制度といえます。

*「主」「従」

言葉の上からは、対等関係というのは導き出せません。
前にも書いたとおり、主従はリアルの実力差に由来し保護し保護され関係になっているものです。
ただ、契約する双方に権利があり義務がある関係だったという特色が、あります。

日本の鎌倉時代や江戸時代の封建制度は、幕府が強大な権力を持ち従う者を圧倒していたので、御家人や大名の側に与えられる権利は大きくなかったわけです。
同じ主従関係でも、このように中身に差があります。

*「主君」「家臣」

これも、前の主従関係と同じことがいえます。
家臣というと、主君の家つまり主君とその子供や孫にも仕えているという印象です。

しかしこの時期の西ヨーロッパの封建制度では、家臣は主君個人との契約関係に過ぎず、主君が亡くなると契約終了というパターンでした。
ただ主君の後継者の人柄を見極め、改めて契約を結ぶということが多かったようです。

これは実は、日本の江戸時代の封建関係の形式上の儀式になっています。
大名に相続が起こると幕府にあいさつに行き、将軍と改めて主従関係を結ぶ(領地の安堵)という儀式を行います。
将軍に代替わりがあると、大名たちは江戸城に赴き「将軍があなたに領地を安堵する」という内容の朱印状をもらいました。

*「国王」「貴族」「農民」「諸侯」「領主」「騎士」「主君」「家臣」

騎士も入れました。
いろいろに使われるので、これらの関係や意味するところの理解が混乱しそうです。

身分としては、国王・貴族・農民です。
いずれも先祖代々、子々孫々、生まれと血統により受け継がれていく立場です。
農民が貴族になることはできませんが、戦争で手柄を立てると騎士見習いや騎士に採用され貴族になれるチャンスは非常に少ないですがありました。

土地支配関係では、領主・農民です。

領主の領地や勢力の大小により、国王・諸侯・騎士と区分されます。
国によっては、諸侯の中から国王に選ばれる場合もあります。

封建的主従関係では、主君・家臣です。
この中身は、国王・諸侯・騎士といろいろです。
少し複雑ですが、国王の中には他国の王を主君としている家臣もいました。
例:中世のイングランド王は、フランス王の家臣。
このことが原因で、両国の間に百年戦争が起こります。

*「地域」

という言葉は、地方と言い換えてもいいです。
中央政府に対する地方です。
この中世西ヨーロッパでは、領主が国王から課税されない入られないという独立の領地を有していたため、中央政府の力が地方に及びませんでした。
つまり、権力が各地域で各個に分立・分散していたのです。

このため支配される農民は、生まれた地域(領主の領地)で一生を過ごす生活を余儀なくされます。
地域同士の交流も、ほとんどありませんでした。
村々を渡り歩く人たちは、行商人や吟遊詩人が主でした。

*「直営地」「保有地」「(共同)牧草地」「自由」「奴」

動詞が入った言葉です。
それぞれ、領主が直接経営している土地、農民が保有している土地、農民たちが共同で使用している土地となります。

基本的に領地の100%が、領主の所有地です。
「所有」と「保有」、言葉が違うことに気づいてください。
保有というのは、領主から「この土地を自由に使うことを許可される」という意味です。
自由といっても、使用方法は限られます。何せ畑を耕す犂(すき)の幅だけ(つまり一畝(うね))の短冊状の土地ですから。

そして領主直営地も、もちろん畑です。
働かされる人は、領地内に住む農民です。その土地で収穫された作物は、全て領主のものです。つまり農民のタダ働きです。
自分が保有する土地での耕作は、その合間にしかできません。
農民が食べていくには保有地の収穫物だけでは足らないので、領主からおこぼれをもらうしかありません。
領主から散々奴隷的にこき使われ、やっとおこぼれにありつけます。
こんな感じです。農奴と呼ばれる理由が分かります。

「共同牧草地」も同様で、領主が所有する牛馬や羊が大半を占領します。
農民が保有地で効率よく(人力だと効率が悪い)耕作するには、その牛馬や羊を領主から借りることになります。
もちろん領主は、タダでは貸してくれません。

 

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世界史要旨把握8中世ヨーロッパ史(8)ノルマン人の活動

今回の参考資料・引用元は

山川出版社発行の教科書『世界史探究 詳説世界史』2022年検定済23年発行

P98(16行目)~P99(23行目)「外部勢力の侵入とヨーロッパ世界」

https://new-textbook.yamakawa.co.jp/w-history

 

冒頭文で時代を特定する

8~10世紀、西ヨーロッパはたえず外部勢力の侵入に見舞われていた。

これは前の時代というより、前にやった単元と同時代であることを意味します。
8世紀は、フランク王国メロヴィング朝からカロリング朝に変わり、カール大帝が登場した頃。
9世紀は、フランク王国が分裂した頃。
10世紀は、ドイツ(東フランク)王が神聖ローマ皇帝に任命された頃です。

本文を読み進めると、11世紀の出来事も出てきます。
中世といわれる時代の前半部分に当たります。

いわゆるヴァイキング海賊が西ヨーロッパを混乱の極みにさせていたということで、この単元をダイナミックで面白いと思う人も多いのではないでしょうか。
ライトノベルやアニメ作品の題材にもなっているというのも、あります。
しかし、他の単元とのつながりを忘れてこの出来事だけを印象深く見ることは、避けなければいけません。

 

繰り返し出てくる言葉により、本文の要旨を把握する

第一段落

東方から (スラヴ)人 (イスラーム)勢力 (シチリア)島 南(イタリア)(フランス)(マジャール

この本文の主内容であるノルマン人以外の、西ヨーロッパを脅かした諸民族・勢力が内容です。
「東から、南から、諸民族・諸勢力が脅かし、侵入してきた」

中世ヨーロッパ史の最初の単元で書いたとおり、西ヨーロッパの気候と土質は安定しかつ優れ農牧業が発達しており、諸民族の羨望の的になっていたようです。
また地理的位置が、大陸の西端だったこともあります。(吹き溜まり)

 

第二段落

(ゲルマン)(ノルマン)海(ヴァイキング)船 一派(フランス)      (ノルマンディー)公 国(両シチリア王国)建国(イングランド)(イギリス)(アングロ=サクソン)(9世紀)(クヌート)征服

「ノルマン人は、海から船でやってきた。ある一派はフランスに行き公に封じられ建国し(のちイングランドを征服)、ある一派はシチリアに建国し、ある一派はイングランドを征服した」

西ヨーロッパが古代の地中海から離れ大陸の農牧業地域と化した頃、その忘れた海からやってきた敵に脅かされるというのは皮肉ですね。

ドイツやポーランド付近には行かないで、イギリスやフランス、イタリアに行ったのは、後者の地理的位置がそれぞれ西の端、南の端だったことが大きいと思います。
(スペインや北アフリカは、イスラーム勢力の支配下
もちろん交通手段が船なので、蓄えがあればさらに西、大西洋を渡っていくというのも、十分にあり得ました。

各地域をとことん侵略しなかったのは、余力がなくてできなかったからです。
クヌートやウィリアムによるイングランドの征服は、移動距離が短かったからできたというわけです。
ゲルマン人のうちのフランク王国だけがなぜ発展したかというその理由も、移動距離が短く消耗が少なかったからです。

 

第三段落

(ドニエプル)川(ノヴゴロド)(キエフ公国)(アイスランド)(グリーンランド)(北米大陸)原住地(北欧)(デンマーク)(ノルウェー)西 世界

「ノルマン人は各地に移住・建国したほか原住地にも建国したが、やがて西ヨーロッパ世界の一部になった」

ノルマン人は、8世紀から300年ほど活動した後、その特色は各地域の社会に溶け込みました。

固有名詞が多数出てきてとても複雑そうに見えますが、本文の要旨は非常に少ないです。これだけです。
ダイナミックな物語を期待していた人にとっては、期待外れだったことでしょう。

 

歴史的思考を促すような言葉は

東 南 海 船 一派 国 川 西

方角言葉は、本文要旨のところで出てきました。

一派というのは、ノルマン人といっても他の民族と同じく多数の部族(村ごとに違う)に分かれているということです。

船は、海だけでなく川にも浮かべることができます。川に沿って移動したのです。
略奪した物資や戦闘用の武器や馬を運ぶのに適していました。

*「海」「船」「川」

この3つの言葉を見たら、連想することは?
船は、浮力を利用し大量の物資を運ぶことができます。
現代は航空機が発達していますが、大量の自動車や原油や小麦を運ぶにはまだまだ船が必要です。

そう、海や川と船とくれば、交易・貿易を連想します。
実はノルマン人の本業は海賊ではなく、交易・貿易でした。
これは中国の明王朝時代の海賊「倭寇」と様相が似ています。倭寇も、本来は商人です。
一部の戦闘狂は除き、多くのノルマン人・ヴァイキングは日常は交易・商業活動をしていました。

ただ当時西ヨーロッパ中世の日常の多くは農牧業であり、その人たちから見ると船に乗って海外交易をしている人たちの姿は異様なものに思えたかもしれません。
これは、中世において国際金融業に従事したユダヤ人への偏見、地中海をまたにかけ商業活動を行うイスラーム勢力への敵対とも関係してきます。
当時は後述しますが、西ヨーロッパ人は生まれた村で生涯を過ごし、国際交流とは無縁だったのです。

 

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世界史要旨把握7中世ヨーロッパ史(7)フランク王国の分裂

今回の参考資料・引用元は

山川出版社発行の教科書『世界史探究 詳説世界史』2022年検定済23年発行

P97(17行目)~P98(15行目)「分裂するフランク王国

https://new-textbook.yamakawa.co.jp/w-history

 

冒頭文チェック

カールの帝国は一見中央集権的であったが、実態はカールと伯との個人的な結びつきのうえに成り立つものにすぎなかった。

冒頭文を探究することにより、前の時代を確定し、この単元の歴史的な位置を把握することができます。
この文は、前の単元の内容を深めた内容になっています。
つまりこの単元の内容は、前の単元の時代の後の時代であり、その前の時代に存在していた事柄が原因となって生じていることが読み取れます。

 

本文要旨の把握

要旨を把握しておくことは、初めて学ぶときも重要ですが、復習をするときもその効果を発揮します。
復習段階で教科書をざっと見るということをよくすると思いますが、それは復習方法としては最悪の部類です。
要旨をきっちりと把握しておくことで、復習の意義が倍増しで増大します。
そして私が提案している<繰り返し出てくる言葉を抜き出し、その語群で作文をする>という手法が、要旨把握の手伝いをしてくれます。

この単元の段落は、4つあります。

第一段落

(カール) 後 (843年) (ヴェルダン) 条約 (メルセン) 帝国 東 西 (フランク) (イタリア) 分裂

「その(前の単元の)後、条約が結ばれ、帝国は東部・西部などに分裂した」

<いわゆる重要語の扱い>
固有名詞や歴史用語は、はっきり言って、要旨把握の邪魔になります。
よってそういう語はカッコ内に留め、参考程度に頭の片隅に置いておくというやり方をします。
これは、多くの大学入試問題にも対応したやり方だと思います。
入試問題では重要語や固有名詞が直接問われることは、ほとんどありません。その語の意味や背景や歴史的意義が問われます。
日常の学校の定期試験では重要語や固有名詞が直接問われることが多いでしょうが、それも把握した要旨に言葉を載せる形で学習したほうが理解が深まり暗記し易くなります。

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<ここの要旨は>
さてこの第一段落の要旨の中に、「条約」というのがあります。
この言葉を「ふーん、条約を結んだのか」という感想で片付けてはいけません。
これは歴史的思考にもなるのですが、そもそも条約を結ぶような状況はどういう事態なのかを考えないといけません。

近代の歴史の中に、戦争という出来事があります。
その戦争を終わらせるときに、交戦していた国々はどういう行動をとりましたか?
中学までの歴史学習で習得した内容で、十分に思い出せます。
日清戦争の後は下関条約日露戦争の後はポーツマス条約、第一次世界大戦の後はヴェルサイユ条約第二次世界大戦の後はサンフランシスコ条約

そう、条約は、深刻な紛争や戦争の後始末として結ばれます。

カール大帝が亡くなった後のフランク王国内は、深刻な対立・紛争そして戦争と、混乱を極めました。(兄弟同士のいわゆる骨肉の争いでした)
その妥協点を何とか見出して結んだのが、2つの条約です。
時をあまり置かず2回も結んだわけで、その紛争がいかに深刻だったかが分かります。
その紛争の原因は歴史的な意義があまりないので割愛しますが、興味があれば調べてみてください。

第二段落

(フランク) (ドイツ) (カロリング) 家 血 絶える 支配する 諸侯 王 教皇 (ローマ) 皇帝 神聖

「ドイツではカロリング家の血が絶え、各地を支配する諸侯が王を選ぶようになった。教皇は、その王を神聖皇帝に任命した」

またまた教皇と皇帝が出てきました。
先にカール王に与えられた皇帝位はその後その子孫に継承されていたのですが、お家断絶により皇帝位は取り消しになりました。
(このことから、皇帝位は国家君主への任命ではなく、個々の皇帝への個人的な付託だと分かります)

もちろん教皇は東のビザンツ皇帝と対立状態が続いているので、対抗するため西にもう一人の皇帝を生み出す必要がありました。
ドイツ王に皇帝位が与えられたのは、偶然です。
ドイツ王オットーがたまたま、教皇のピンチを救ってくれたからでした。

しかし、しつこくローマ、ローマ、と何度も出てきますね。
この時代から数百年も前のローマ帝国の存在が、ヨーロッパ人の心に深く深く刻まれています。(当時は、その東半分がまだ存続しています)
これを「ローマ理念」と呼びます。
このローマ理念は、その後も現代にいたるまでヨーロッパに大きく影響しています。

第三段落

(血)筋 断(絶)(パリ) (カペー)

フランスでも、ドイツと同じような状況でした。
ただ皇帝位をもらえなかったのでフランス王はこの後、ドイツに大きな対抗心を抱いていきます。
国境線をめぐる争いで有名な、独仏千年紛争の始まりです。

第四段落

イタリアの情勢は、この1語だけです。
海からもイスラーム勢力が脅かしているのですが、地続きの北(ドイツとフランス)からの圧力がずーっと近代まで続いていきます。
ただアルプス山脈がその間に横たわっていて北からの圧力はほとんど長続きせず失敗するのですが、北の国々はまったく諦めることがありませんでした。
「ローマへの憧れ」がそれほど強烈だったのです。
(「ローマの休日」という映画も、大ヒットしました(笑))

もちろんイタリア人自身にも、「ローマの栄光への憧れ」が根強く残ります。
第一次世界大戦後にファシズム体制を作ったムッソリーニは、ローマ帝国の復興を掲げました。

 

思考が広がるような語を用い歴史的思考をする

<歴史的思考の難しさ>
思考が広がるような語とは、パートナーが存在する語です。
「東」という語があるなら、そのパートナーは西、あるいは北、南です。
「大きな」という語のパートナーは、小さな、です。
「中」という語は、何と何の中間なのか?どういった勢力の中心なのか?という思考の元になります。
「戴冠する」という語を見たら、誰が誰の頭の上に冠を載せるのかを考えてください。

こういう思考は実は、本文の要旨把握のときに同時に働きます。
ただ十分な知識のない状態では、この思考は働きません。
単元を初めて学ぶ段階では、そもそも歴史的思考は不可能です。

高1相当科目に「歴史総合」というものがありますが、「総合」というのは知識の全てを総じて合わせるという意味です。
知識がほとんどない状態で「総合」という行動は、不可能なのです。

よって歴史的思考というのは、本来は高3以上、大学生段階が妥当だと思います。
あるいは中学生段階で歴史の要旨を把握し、高校生段階でその応用思考をするという方法も考えられます。

このブログは、そういう難しい歴史的思考の助けをするという目的を持っています。

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<この単元の、思考が広がる言葉>

後 東 西 帝国 絶える 支配する 諸侯 王 教皇 皇帝 北

*「後」

歴史の基本語です。歴史学習の必須語です。
なお、この反対語である「前」も歴史の基本語ですが、「後」に比べると価値が少し落ちます。
歴史は、前から順番に後へ後へと並べられた記録だからです。

現代の前の時代はどうだったか?というような思考は、歴史的思考ではなく、現代社会学習の思考です。
私もその単元の最初に冒頭文を読んで前の時代を知れと言いますが、あくまで最初の部分だけです。
歴史は、前と後の2つの時代を結ぶものです。原因だけでは足りません。原因と結果の両方が必要なのです。

*「東」「西」

ここでは、フランク王国が東西などに分裂したという意味で使っています。
しかし、学習はそれで終わりません。
分裂したといっても、東の地域と西の地域、そして南の地域とは隣り同士です。
分裂して絶交してサヨウナラ、というわけにはいかないのです。

本文の要旨把握で書いたとおり、この後もこの3者は互いに対立抗争しときには戦争を起こします。
現代にいたると、一つの国際経済同盟(EU)を組んでいます。

*「諸侯」

あとは、本文の要旨把握のところや他のブログ回で触れているのでそちらを参照してくれればいいのですが、この諸侯という語についてだけ少し触れます。

これは、日本の戦国時代や江戸時代の大名たちと同様の存在です。
国内の各地域に根ざした領主や有力者たちです。

後のブログ回で書きますが、この時代は外からの侵入が多くその防衛のため各地域が個々に防備を固めていた時代です。
軍事的な統率が必要になり、地域兵力を基盤とする地域君主が多数現れます。
その軍事力を背景に、国王や国家への発言権を強めました。

ドイツでは、諸侯たちが神聖ローマ皇帝位の激しい争奪戦を繰り広げます。
名前だけの皇帝位ですが、「西ヨーロッパに君臨する」名誉は計り知れないものがありました。

 

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世界史要旨把握6中世ヨーロッパ史(6)カール大帝

今回の参考資料・引用元は

山川出版社発行の教科書『世界史探究 詳説世界史』2022年検定済23年発行

P96(11行目)~P97(16行目)「カール大帝

https://new-textbook.yamakawa.co.jp/w-history

 

冒頭文

この単元には冒頭文が、ありません。
厳密に言うと、少しあります。

ピピンの子カール大帝

これだけです。
でも、これだけで十分でしょう。
前の単元のラストでフランク王ピピンローマ教皇に土地をプレゼントしたとあるので、この単元はその続きの内容となります。

 

本文の要旨把握

この単元には、3つの段落があります。
ただ最後の段落は、単元内容のまとめになっています。その内容を引用すると

このようにローマ帝国以来存続した地中海世界は、西ヨーロッパ世界・東ヨーロッパ世界、そしてイスラーム世界の3つにわかれ、以後それぞれ独自の歴史を歩むことになった。

何か突然、世界の話になっています。
フランク王国の話なのに、???
よく「まとめと要旨は同じだ」という人がいますが、これを見れば全く違うことが分かると思います。
これは「…以来…、以後…」とあるので、時代の大きな流れの話です。

では、段落ごとに要旨を把握しましょう。繰り返し出てくる言葉は

第一段落

(カール) 大 帝 (ランゴバルド) 王 国 東 (ザクセン) 人 (アヴァール) (イスラーム) 西 (ヨーロッパ) 州 伯 (フランク) (ビザンツ) (ラテン) 語 (カロリング) (ルネサンス) 文字

固有名詞を除外すると、内容が薄いような印象に見えます。
しかし、要旨というのはそういう簡易なものです。

「大帝が現れた。東の諸王国や人々を征服・支配し西ヨーロッパを統一、州を置き伯を任命し、言語を確定し文字を作った」
という作文ができます。これがこの第一段落の要旨です。

その詳しい内容は、歴史的思考の範囲になるので後述します。

第二段落

(ローマ) 教会 皇 政治的 戴 冠 文化 独立 歴史 意義 (キリスト) 中世 世界 首長 (ギリシア

「ローマ教会は、カールを政治的に下に置く戴冠を行った。これは、西欧が独立の文化を持つにいたる歴史的な意義を持つ出来事で、ここにローマ教皇が首長である西ヨーロッパ中世世界が成立した」

教皇がその手に皇帝(ローマの)冠を持ちそれをとある人物の頭に置くという行動は、教皇がその人物を皇帝に任命したことを意味します。
ローマ皇帝は古代(キリスト教国教化以後)もビザンツも、即位時に教皇からこのような扱いを受けていませんでした。ローマ市民に推されてその地位に就くという形をとっていました。

このカールへの戴冠は、史上初めてキリスト教皇が皇帝を任命したことを意味します。
この結果、皇帝以下諸国の君主は全員、教皇の下位に置かれました。
さらに東のビザンツ皇帝に対しても教皇が優位に立つことを示しました。
もちろんビザンツ皇帝は反発し、そっぽを向きます。
(当時は逆にカールに好意的で、東西統一しようという機運もあったのですが)

従来は、世俗権力者が宗教を下位に置くという認識が普通でした。
ビザンツ皇帝の聖像崇拝禁止令の効力は、西欧にも及んでいたのです。
このとき西欧では宗教が世俗権力の上に立つと示し、東欧とは異なる社会文化であると表明したのです。

 

歴史的思考をする

要旨把握が基本で、これが応用であると前に書きましたが、上のような深い理解をするためにはこの歴史的思考(一つの言葉から思考を広げる)が欠かせないと思います。

大 帝 王 東 西 州 伯 語 文字 皇 戴(冠) 独立 中世 世界

本文の内容のほとんど全部ですね。
つまりこの単元には歴史的思考が満載で、歴史的思考なしで本文を理解できません。
ここは分量が非常に多くなります。関心のある事柄だけ読むのもいいでしょう。

*「戴冠」「独立」

まず、動詞2語を見ましょう。

戴冠というのは、冠を手に持ち他人の頭に載せるという意味です。
つまり、誰が冠を手に持ち、誰の頭に載せたかを確定する必要があります。
この場合は、キリスト教ローマ教会の首長である教皇が冠を手に持ち、フランク王カールの頭の上に載せました。

この人物特定は、とても大事なことです。
のちナポレオンが皇帝になるとき、従来通りローマ教皇が冠を手にしたのをナポレオンが奪い取り、自分の手で冠を自分の頭に載せました。
これは「皇帝になるのは自分の力でだ」という気持ちと、もう一つ「余はフランス革命の申し子だ。革命が冠を余の頭に載せるのだ」という気持ちがあったがゆえです。

なおナポレオンは、王妃の冠を手に持ち妻の頭に載せました。
つまり「わが夫婦は、かかあ天下じゃないぞ?亭主関白だぞ?」と表明したことになるのです(笑)。

独立という語も同様で、前は誰の支配を受けていたのかという人物特定が必要です。
ここでは、ビザンツ皇帝の支配から独立したという意味になります。

おや?フランク王国やローマ教会は、東のビザンツ皇帝に支配されていたのでしょうか?
確かに政治的には支配されていません。独立の国家であり地域です。
独立しているのに、なぜ独立?

ここで独立したのは、そもそも誰(その人を中心とする勢力)なのか特定する必要があります。
カールに冠を載せたのは、ローマ教皇です。
したがって独立したのは、ローマ教皇とその指導下にある西ヨーロッパのキリスト教正統派(カトリック)の信徒たちです。フランク王カールとその配下のゲルマン人たちも、この信徒ですね。

ということは、受けていた支配は政治的なものではなくて、宗教的なことだとわかります。
政治が宗教を支配するのは、当時は普通でした。
東のビザンツ皇帝は当時ヨーロッパ唯一の皇帝であり、古代以来の権威ある(ヨーロッパ全体に君臨すると考えられている)ローマ皇帝です。
その政治による宗教支配から脱却した、これが独立したという意味になります。

*「大」

カールにこの「大」称号をつけるのは、正直、違和感があります。
カールの事績を見る限り、確かにフランク王国を西ヨーロッパ全体に広げ(参照教科書の97ページの右上の地図)教皇から皇帝に任命されるなど特別の功績をあげています。
しかし、それが何だ?というわけです。

つまりこの「大」というのは、客観的な観点からの称号ではなく、特に現代のドイツ人・フランス人から見ると「われらが国の始祖様」「建国の英雄」に見えるという主観的なものです。
日本の歴史学界は、この主観的な称号をカール王の一般呼称として採用しているのです。

なおカールという呼び方も、実はドイツ語です。
フランスではカールのことを、シャルルマーニュと呼びます。
英語圏ではカールのことを、チャールズと呼びます。
(なおアルファベットの綴りは同じで、発音が違うのです)
このドイツ語読みを、日本の歴史学界が採用しているのです。

このように特に形容詞の語は大げさな表現であることが多く、ほとんどは主観に由来しています。
形容詞を見たら、誰の主観なのかを特定する必要があります。

*「帝」

これは、皇帝という意味です。
皇帝とは、どういう存在なのでしょうか?

ここでは「西ヨーロッパ全域に君臨する者」という意味に使っています。

一般的な意味は、いろいろな民族を内に含んだ広大な領土の支配者です。
皇帝を称していなくても、こう呼ぶ場合があります。
もちろん歴史上には、狭小な領土しか保有していないのに皇帝と称する例が少なくないのですが(「皇帝になりたい」という願望や「皇帝になるぞ」という決意の表明)。

この後に「王」という語があり、皇帝とよく比較されます。
古代中国では、諸王を征服し統一した秦の始皇帝の事績から、皇帝は王の上に立つものとされます。
その後、中国の皇帝は周辺諸国の君主に王の称号を与え形の上だけですが下位に置くという、朝貢外交を展開します。

*「東」「西」

対照語同士が文中に存在します。
ただここでは、フランク王国が東を制圧し、西ヨーロッパを確立というふうになっています。
これは、東からの脅威を防ぐことで、西を固めるという意味です。
それぞれに意味合いが異なるという例です。

東西交流の理解が世界史では重要といいますが、その東西は果たして対等だったのか、それとも一方が大きくて他方が小さかったのかということまで理解を深める必要があります。

古代ローマ帝国と、古代中国の漢王朝とは、ほぼ対等の関係だったと思われます。

しかし大航海時代のスペイン・ポルトガルと、アジアのオスマン帝国ムガル帝国サファヴィー朝明王朝とは、圧倒的に後者が強大です。
「大」航海時代という呼称やのちの欧米列強による植民地支配の知識が念頭に浮かび、ついつい「西欧が優勢でアジア諸帝国を圧倒していた」という誤った理解をする人が、実は少なくありません。
のちにアジアの諸帝国が衰え弱体化すると、ようやく西欧勢力がアジアに進出を開始します。その時代でさえ西欧がアジアを圧倒していたわけではありません。

*「州」

これは、地方組織の名称です。
古今東西の各国は、統治のさい特に国土が広大なときは各地域に独立の組織を作り日常の統治をそれぞれに任せ、中央からはときおり見に行く程度という体制を作ります。
いわゆる地方自治というものです。

実は地方自治は、伝統的な政治支配方式です。
古代中国では郡県制、古代日本では諸国、現代日本都道府県も、その地方組織の一つです。

中央との関係はいろいろで、ときおり見に行くだけとか、スパイを派遣して常時監視するとか、中央からの命令にほぼ服従とか。
フランク王国は1つめのもので、江戸時代は2つめのもの、現代日本は3つめのものですね。
中央から官吏を派遣する場合でも、日常的にはその官吏が中央から独立し統治し、緊急時に中央からの命令に完全服従というパターンが普通です。

*「伯」

のちに貴族の爵位の一つになりました。
一般的に知られる爵位は、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵のいわゆる公侯伯子男。
伯はこの3つめだから大したことないのかな?と思ったら、そうではないのです。

明治時代にも同じ5種類の爵位が作られましたが、伯爵は明治維新の元勲クラス(伊藤博文など)が総理大臣級になったときに叙される爵位でした。
絵画の世界でも「画伯」といいますね。画伯は、画家の大物というべき存在です。
明治時代の規則によると、上の2つは旧貴族や旧大名たちで、伯爵以下が一般人となっています。
諸国においても上2つは王族が叙せられ、一般人は伯爵止まりでした。(特に功績をあげたときは公爵・侯爵になる)

*「語」「文字」

これには、多種多様なものがあるという意味のほかに、それが国家の統一や社会の一体感醸成に役立つという意味もあります。

言葉や文字は、人と人がコミュニケーションをとるときの最大のツールです。
互いに共通のものを使うと、互いのコミュニケーションが大きく高まります。
そこで古今東西の統治者たちは、国内の言語や文字の統一に心を注ぎました。
具体的には、学校制度や教育制度を充実させ、そこで全国民に言語と文字を学ばせるというものです。

カール大帝は、文字を記した書籍を多数作りそれを皆に読ませるという新しい学習方法を採用させました。
従来の学習方法は、一人の教師が大きな声で教える内容を読み上げ、それを生徒が聞いて内容を書き記すというものでした。
前者の学習方法の最大の利点は、学習者のペースで独習可能な点です。
しかも口述されたものの筆記は、聞き間違いが多くあり不正確な学習になります。
現代日本の大学や高校の講義や授業でも、多くの教授や教員がこの口述筆記の方法で教えています。良くない教え方だと思います)

*「皇」

歴史上この字が出てくる場合は、3つあります。
皇帝、教皇天皇
日本語で「皇」とは、神に近い存在とか、国内を統治する最高権力者という意味です。
一般に、世界最高の権力者を意味します。

皇帝は、古代ヨーロッパ世界(ローマ)の世俗の最高権力者で、中世の西欧・東欧に現れた皇帝はその後継者です。
ローマ教皇は、キリスト教の一派であるローマ=カトリック教会の最高権力者で、この時期は西ヨーロッパ世界の世俗権力の全てを下位に置く最高権力者です。

このように、どの分野での最高権力者であるかを確定する必要があります。

*「中世」

歴史の時代区分の中で、最もあいまいな内容の時代を表します。
中世の中とは、中間という意味です。
そう、何と何の中間なのかを確定する必要があります。

「古代と近代の中間」だろうと思う人が多いですね。
確かに、抽象的にはそうです。
しかし具体的には、何と何の中間でしょうか?

人の働き方に注目すると、古代は奴隷制度、近代は雇われて給料をもらい働く、中世は農村から動けないが身の自由はあるというふうに、いちおう区分できます。

ただこれもいちおうであり、農村から動けないというのは事実上の奴隷ではないか?という疑問から、中世は実は古代の延長ではないか?という説もあります。

日本の江戸時代は「近世」といったりします。中世と近代の中間という意味です。
しかしこれもあいまいで、将軍と大名の関係は鎌倉時代の将軍と御家人の関係と同じでは?ということで江戸時代は中世だと言うこともできます。

中世が何と何の中間かの答えは、各地域の諸事情により異なってくるというのが実情です。
ここでは、古代ローマ帝国と、近代主権国家との間の、キリスト教が支配する封建制度の時代としか言いようがありません。

ただ中世といわれる時代の、世界共通の特色はあります。
宗教の発展、武力を持つ者の台頭、戦乱、農村、商業衰退、伝染病まん延などです。

*「世界」

現代的な感覚では、世界はこの地球全体の一つしかありません。
それを歴史では、西ヨーロッパ世界とか、東ヨーロッパ世界とか、イスラーム世界とか、東アジア世界とか、多数の世界が並び立っています。
パラレルワールド?異次元世界?というような感想が浮かびますね。

実は、世界といってもいろいろな使い方があります。

「あの人と私とでは住む世界が違う」という場合は、人の持つ生活手段や思考方法の違いを表し、世界とはそれが共通の人たちの集まりという意味です。
「世界と日本」という場合は、世界は、日本以外(海外)を意味します。

この中世での分立した各世界は、宗教をメインとした文化の違いに由来します。

 

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世界史要旨把握5中世ヨーロッパ史(5)ローマ=カトリック教会

今回の参考資料・引用元は

山川出版社発行の教科書『世界史探究 詳説世界史』2022年検定済23年発行

P95(5行目)~P96(10行目)「ローマ=カトリック教会の成長」

https://new-textbook.yamakawa.co.jp/w-history

 

冒頭文で時代を特定する

フランク王国と協同して西ヨーロッパ世界の形成に貢献したのが、ローマ=カトリック教会である。

と、この単元のまとめが書かれています。
このように、冒頭にまとめや結論を書く場合もあります。
裁判所の判決文は、最初に「主文 被告人を○○刑に処する」などと言いますね。
(事件によっては、長々と理由を述べてから最後に結論を言う判決もあります)

歴史教科書の単元は、通常は冒頭文には前の時代とのつながりが記されます。

フランク王国と協同して」とあるので、フランク王国と同じ時代のようにも見えます。
これだけではよく分かりませんが、次の文を見るとそれがはっきりします。

ローマ帝政末期、五本山のなかでローマ教会とコンスタンティノープル教会が最有力であったが、西ローマ帝国の滅亡後

313年、キリスト教ローマ帝国の公認になり、帝国内に5つの教会管区が作られました。
管区といってもそれぞれが広大な地域をまとめていたので、五本山と呼ばれます。
395年に東西に分裂したローマ帝国の西半分が、476年に滅びます。

以上がこの単元の前の時代、です。
前の単元のフランク王国は、481年にクローヴィス王が国内を統一し、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いとなります。
よってこの単元は、フランク王国の統一時代と同じ時代だと確定しました。

時代の特定と言って何やら細かくしつこくやっていますが、歴史学習ではこの時代の特定が非常に重要です。
その単元がどの時代に属するかを理解することは基本中の基本で、その理解をおろそかにしては歴史学習そのものが崩壊してしまいます。
リアルの学校の授業ではごく簡単に(多くは口頭で)触れられる程度でされることが多いのが、残念に思います。

 

内容の要旨を把握する

3段落あります。それぞれの繰り返し出てくる言葉をチェックします。

(ローマ) 教会 (ビザンツ) 皇帝 (コンスタンティノープル) 教皇 (ゲルマン人) 布教 西 (ヨーロッパ)

(キリスト) 教 聖 像 崇拝 禁止 (イスラーム) 令

フランク王国)(カール=マルテル) 世界 (ピピン) 寄進 結ぶ

いろいろな内容がたくさん書いてあっても、要旨はたったこれだけです。

第一段落

地名が2つあり、その2つが教会名です。
その2大教会が、それぞれ事情が異なっています。

ローマ教会の長は、教皇と呼ばれています。
教皇
すごい名称ですね。皇帝の「皇」を使っています。法王ともいいます。
日本語ではそうですが、ラテン語では「父」という意味です。
宗教の世界で「父」は、神に近い存在(神の言葉を伝える)です。
ローマ教皇が主導して、西ヨーロッパのゲルマン人キリスト教の正統派(カトリック)を布教しています。

コンスタンティノープル教会は?
教会長は教皇と呼ばれていません。
どうやらビザンツ東ローマ帝国)皇帝が、何やらちょっかいをかけているようです。
布教はしているのかどうか、定かでありません。

世俗権力が宗教に干渉してくるのは、歴史上ごく普通のことです。
宗教の力を利用すると、統治がし易いからです。

西のほうの世俗権力は?
前の時代の特定で、西ローマ帝国が滅んだとありますね。
そう、西のほうには皇帝がいません。
しかし有力になりつつある国家は、ありますね。フランク王国です。

第二段落

キリスト教の本来の教義は、聖像崇拝禁止です。
それをわざわざ「令」にしたというのは、どういう意味だと思いますか?

令というのは、政治上の命令のことですね。
宗教の教義にまで立ち入って命令を出すような存在は、誰でしょうか?
第一段落を見れば、ビザンツ皇帝か、フランク王でしょう。
しかしフランク王はまだ有力ではなく、おそらくビザンツ皇帝で決まりですね。

命令を出すというのはどういう時かというと、その命令の内容が守られていない、緩んでいるときです。
つまり聖像崇拝がヨーロッパ各地で普及していたというわけです。
聖像崇拝、具体的にはキリストが磔(はりつけ)にされた十字架や、聖母マリアが赤ちゃんのキリストを抱っこしている像に向かって祈りをささげることです。
キリスト信徒でない立場から見ると、キリスト教の教義内容がとても分かりやすいシーンです。
キリスト教の基本教義は、キリストが十字架に磔にされたことにより全人類の罪(エデンの楽園で禁断の実を食べた罪)が救われたというものです。
布教するには、とても便利なものです。

西のほうの教皇は、東のビザンツ皇帝の命令に反発します。
しかし相手は世俗最高権力者の皇帝。実力ではかないません。
さて、どうしたらいいものやら…

第三段落

西の教皇は、フランク王国と結びます。

結んだその手段は、寄進。土地のプレゼントです。
フランク王ピピンが、教皇に広大な土地をプレゼントしました。
教皇は大喜びし、「よっしゃ、よっしゃ」と…。
賄賂をもらって喜ぶ政治家みたいですね。買収されているような気が…。

フランク王としても宗教教団が統治に協力してくれるので、メリットこの上ないです。
ローマ教皇としても、強力な王国が味方になったのでビザンツ皇帝に対抗できます。
まあ、生きていく上ではこういった妥協が必要なんですよ。

 

歴史的思考・歴史探究

最後に、応用です。
趣味で歴史を学習する人は、前の段階までで足ります。
大学入試対策や人間の精神の幅を広げたい人は、この思考や探究をしてください。

皇帝 教皇 布教 西 崇拝 禁止 令 結ぶ

今回は、動詞が多いです。
動詞といえば、誰が、誰に対し、何に対し、何々をしたかを確定することが大事です。
実は、今回はほとんど本文の内容のところで歴史的思考もやってしまっています。

*「禁止」「令」

東のビザンツ皇帝が、西も含めたヨーロッパ全体のキリスト教徒と教会に対し、命令しています。
ここでは、世俗権力が宗教に干渉していることと、東の人が西の地域に干渉していること、禁止令を出すような状況とは?ということを指摘しています。

世俗権力が宗教に干渉するその代表例が、弾圧です。
日本史でも世界史でも宗教に対する弾圧が、有名な事件になることが多々あります。
第二次世界大戦時のナチによるユダヤ人大量虐殺は、現代の国際情勢に大きな影を落としています。

逆に宗教が、世俗に手を出す事例も多くあります。
宗教教団が政界に進出したり、テロ事件を起こし社会を揺るがしたり。

宗教と政治の関係はよくいわれる事柄で、現代日本では政教分離が基本ですが、アメリカでは大統領の就任式に聖書が登場します。

*「結ぶ」

確かに宗教の協力が得られれば統治がし易くなるわけですが、のちにはその逆に宗教から分離する(新しい独立の宗教分派を作る)という例も出てきます。

宗教改革という出来事が、それです。
その多くは、地域の国家が超国家的な教皇の支配から離れ独立するというもので、ドイツの宗教改革はドイツ諸侯の独立意識から生じ、イギリスの宗教改革は王室の私的な事柄への干渉を排除する目的で為されました。

*「皇帝」VS「教皇

この単元の時期では、両者はうまく住み分けができています。

皇帝は東にしか存在せず、教皇は西にしか存在しません。
東には教皇がおらず、西には皇帝がいません。

しかし間もなく、西にも皇帝が現れます。
本来のローマ皇帝ではないのですが、それに近い存在です。
東のビザンツ皇帝に対抗するには、フランク王ではやはり地位に不足があります。
このフランク王を西の皇帝に押し上げていきます。

しかし、西の、この皇帝と教皇がやがて真っ向から対立します。
どちらもそれぞれ、政治の世界、宗教の世界に収まっていれば対立は起きません。
しかし、皇帝が宗教に干渉し、宗教が政治に干渉するというのは、普通です。
教皇の権威は16世紀に弱まりますが、皇帝の権威は19世紀初めまで続きます。

 

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世界史要旨把握4中世ヨーロッパ史(4)フランク王国

今回の参考資料・引用元は

山川出版社発行の教科書『世界史探究 詳説世界史』2022年検定済23年発行

P94(8行目)~P95(4行目)「フランク王国の発展」

https://new-textbook.yamakawa.co.jp/w-history

この教科書を持っていない方にも分かりやすいように、固有名詞や歴史用語も含めて書いています。

 

冒頭文

ゲルマン諸国家の大半が短命だったのに対し、その後

前の時代というより、ゲルマン人の他の部族との比較になります。
数あるゲルマン部族の中で、フランク王国だけが大発展を遂げます。

フランク王国に注目が行きがちですが、なぜゲルマン諸国家は短命だったと思いますか。

ゲルマン人は、先住民のローマ人にとっては侵入者であり征服者です。
土地や財産を略奪されたり、人を拉致殺害されたりと、非道なことをされました。
さらに政治的に支配つまり課税してきたり、徴兵されたりします。
文化(言語・宗教)の違いもあり、先住民には反発・不満が常にありました。
抵抗されたり反乱されたりして、ゲルマン支配は揺らぎ続け滅んでいきました。

フランク部族も、同じようなことをしたはずです。
なのに、なぜ存続し、発展したのでしょうか。

 

本文

繰り返し出てくる言葉は、次の通りです。
ここは段落が4つあります。
第一段落は、冒頭文の続き。第四段落は、まとめの内容です。

西 (ヨーロッパ) 世界 役割 果たす (フランク) 王 国

(クローヴィス) (メロヴィング) 朝 全 統一 (ガリア) 支配 派 (キリスト) 教 改宗 (宮)(宰)

イスラーム) 勢力 (カール=マルテル) (トゥール・ポワティエ間の戦い) 

この語群を使って作文をすると
「西ヨーロッパでは、フランク王国が大きな役割を果たした」
メロヴィング朝を立てたクローヴィス王は国内の分裂を統一し、キリスト教の正統派に改宗した。やがて宮宰が台頭する」
イスラーム勢力が侵入したが、宮宰カール=マルテルが軍を率いて撃退した」

ここには、2つの行動が記されています。
1つは、キリスト教の正統派に改宗したこと。
もう1つは、侵入したイスラーム勢力を撃退したこと。

そう、ここのメインテーマはフランク王国キリスト教との結びつきが強まったということです。
フランク王国は、キリスト教徒であり、キリスト教の保護者であるということを示しました。
これが、キリスト教ローマ・カトリック)を主要要素とする西ヨーロッパ世界の基礎を作る大きな役割を果たしたという意味です。

たったこれだけで王国が存続し、発展した?
宗教信仰があまり身近ではない一般日本人にとっては実感がわかないと思いますが、当時のローマ人にとっては(現代の世界じゅうの多数の人たちもそうです)宗教信仰イコール自分の存在意義でした。
ゆえにフランク王がキリスト教正統派に改宗したニュースを聞いたローマ先住民は、「ゲルマン人が私たちの同胞になった。フランク王が私たちのリーダーになった」と感じたのです。

もちろん支配されることへのわだかまりや反発はあります。
しかし軍事的に圧倒された、敗れたというリアルを受け入れなければ生きていけません。
そういう苦渋の心理を少しでも和らげ統治を容易にするという意味で、統治者のカトリックへの改宗は非常に重要なことだったのです。

そしてフランク王国が、他宗教軍団の侵略を阻止しました。
「私たちの同胞である、ゲルマン人のフランク王が私たちを守ってくれた。絶大に支持する」
というのが、先住ローマ人たちの感想でした。
当時のフランク王が弱くなり宮宰が軍を指揮したことで、この宮宰への支持が急速に集まります。

 

*ここで脱線話

日本人の多くが無宗教なのですが、これは国際的には通用しません。
もし自己紹介や他国への入国の際に「あなたの宗教は?」と尋ねられ「無宗教」と答えようなものなら、信用されない人間と思われるだけでなく、国によっては入国拒否・強制送還になります。

世界中の多数の人々にとっては、宗教は人のアイデンティティーそのものだからです。

それでは、何と答えればよいでしょうか。
仏教が連想できますが、多くの人は葬式や法事でしか仏教に触れないと思います。
これでは、もし宗教の話題を振られた時、困るでしょう。
ただ歴史学習をしていれば、仏教の簡単な内容は答えられるかもしれません。

私が、良い答えを教えましょう。
キリスト教」「神道(しんとう)」「道教(どうきょう)」「仏教」の4宗教
です。
一神教の信徒にとっては違和感があるでしょうが、多神教だといえば理解されます。

この4つは、日本の伝統的な慣習や年中行事と一致しています。

例えば、祭り。
神輿やだんじりが、必ず宮入りしたり寺に参じたりするでしょう。
神社や寺院の境内には、店がたくさん出るでしょう。
花火には、死者の霊を慰めるという仏教的道教的な意味合いがあります。

正月・バレンタインデー・ひな祭り・端午の節句・七夕・お盆・月見・クリスマス。
これらは、全て宗教行事に由来します。

桃太郎の鬼退治。桃は邪気を払う、という道教信仰に由来します。

そう、実は日本人は、宗教信仰が日常なのです。日常過ぎて宗教であることを忘れているのです。

 

歴史的思考

さて、歴史的思考です。

西(ヨーロッパ) 全 統一 派 (キリスト)(イスラーム 

*「西(ヨーロッパ)」

といえば、そのころ東ヨーロッパはどうだったか?
なんですが、東に目を向けるのはまだ早いです。

西ヨーロッパのキリスト教の状況を詳細に見る必要があります。
さらにフランク王国のその後の政治変化も見ないといけないし、その後の北からの海賊襲来も必要、さらにその海賊対策で始まった社会制度の学習も必要です。

前にも書きましたが、ビザンツ帝国の単元を西ヨーロッパの前に位置させたこの教科書編集者の判断は、少し疑問を感じますね。

*「全」「統一」

フランク王国は、クローヴィス王の全土統一以前は分裂状態でした。
この時期の状況については、関心のある人は調べてください。

*「派」

キリスト教の正統派に改宗したと上に書いたとおり、キリスト教の中は考えの違いからいろいろな派閥に分かれていました。

派閥といえば、政党内のものが有名です。
考えの違いが理由ならいいのですが、なかには「派閥の親分に世話になったからその派閥」「あの領袖は頼りになるから」のような理由の派閥も少なくありません。

当時のローマ帝国キリスト教で「異端」とされ追放された派閥に、アリウス派というのがありました。
正統派のアタナシウス派は「キリストは神であり聖霊である」としたのに対し、アリウス派は「キリストは人間である」という考えでした。
ローマ人はアタナシウス派ゲルマン人キリスト教徒の多くはアリウス派でした。

*「キリスト教」「イスラーム教」

世界史的に見て、この2つは必ず常に対比する必要があります。
キリスト教の単元を学ぶときは、そのころイスラーム教はどうだったかという視点を持っておかなければなりません。
逆も、同様です。

 

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